BORN FREE

フラットコーテッドレトリバー3頭との悲喜交々な日々

A LONG VACATION


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学生時代は色々なアルバイトをしていた。

今にして思えば私の学生時代は人生のロングバケーションのように思える。

飲食店、アパレルショップ、家庭教師、受付嬢、ウグイス嬢、宛名書き、展示会コンパニオンなどなど、親が心配するようなバイトには手を出さなかったが、色々なアルバイトをした。
大概、3か月くらいしか続かないのがアパレルショップ系のバイトだったけど、今にして思えばケバい店長に割と可愛がって貰えたと思う。
女だらけだったけど、いじめられたり・・・という記憶は無い。
大人の世界を垣間見るような?そんな感じで、店長とか副店長の私生活の話を聞くのが好きだった。
アルバイトと言えども社販で洋服が買えたので、バイト代はほぼ社販で買う洋服に消えた・・・。

週1の家庭教師の仕事は地味で好きでは無かったが、母親が見つけてきたバイトで、弟の同級生の従姉妹の小学校3年生の女の子に国語と算数を教え始めた。
結局、5年生までの3年間教えたが(私が就職してしまったので)、当初、その子が分数のところでだいぶ出遅れていて、教えるのにミカンとかリンゴを実際に切って、実験しながら教えたりするのは楽しかった。


他に週に2-3日はアパレルショップ系か飲食店系のアルバイトもして、さらに単発で入る仕事を土日なんかも友達と一緒にやっていた。
そんな中、試験の時にお休みを頂きながらも、なんだかんだと続けていたアルバイトが、当時の実家から徒歩10分程のところにあった「ピザハウスモッコ」というお店だった。

横浜方面から東名川崎インターを通過する時、右手の高台にあるお店で、私が学生時代には既に新しいお店ってわけでも無かったので、もうかれこれ40年以上のお店である。
一時、バブルの頃は二子玉川や等々力といった世田谷に進出していた時期もありましたが、今は多分本店のみなんじゃないかな?と思う。

夏休みは割と一杯働いたりしてたが、大滝永一の「君は天然色」が有線で流れていた。

当時、ピザが食べられるお店はそんなに多くなかった。
イタリアントマトがチェーン展開で、あちこちに出来て、一気に普及したけど、イタリアントマトが流行るよりもずっと前から、ピザハウスモッコは東名川崎インターの高台にあったのだ。

お店の裏には社長宅があって、社員さん、アルバイトともに夕食はチケット制で社長宅(母屋)で食べることが出来た。
社長の奥さんのサポートで社員さんが1人、ヘルパーで入って、大きなダイニングテーブルで、休憩に入った人から順番に食べる。
他の飲食店でも、賄いご飯は出たけど、私は母屋で大家族のように食べるモッコの賄いが好きだった。

好きだったんだけど、店長、副店長、そのほかの社員さん達とお話するのがちょっと恥ずかしくて(今では想像も出来ない人物像だ🤣)、あまり自分からは話さなかったような記憶である。

そう、おとなしい子と思われていた。

ショートカットが良く似合うハキハキとした笑顔の素敵な社長の奥さんが好きで、ヘルパーで裏に回されると嬉しかった、、、が・・・実のところ、家でもたいして手伝いをしていたわけではないので、ろくな役には立ってなかったと思う。


ピザハウスモッコは高台にあり、その高台の店の横から階段で下に降りれるようにして「串の坊」という串揚げ屋さんのフランチャイズ店を始めることになった。
お店がオープンしてから3か月間位だったと思うけど、串の坊の本部から板さんが2人来て、モッコからは店長と名前は忘れてしまったが、チェッカーズのフミヤにちょっと似た感じの社員さんが下に降りて、店長は串の坊の店長となり、上に残った副店長がモッコの店長となた。

副店長はガタイの大きい人で声も大きくて、実はちょっと怖くて苦手だった。
一方で店長はいつもニコニコしてて優しくて大好きだったし、5名くらいいた社員さんの中では、一番年齢的にも近くて優しかったフミヤ似の社員さんも下に降りてしまったので、私も下に回りたいと思ったけど・・・そうはいかなかった🤣

家から近所のモッコのバイトは、いつも一旦帰宅してからバイトに入って夜の10時まで働いていた。
今はマンションだらけの高台エリアであるが、当時は空き地も多くて物騒だという事で、4歳年下の弟がいつも10時に合わせてお店に迎えに来てくれた。

すると、社員さんが弟と仕事上がりの私に、コーヒーフロート(アイスクリームの載せ方に特徴のあるお店の人気商品だった)を出してくれて、カウンターで弟と二人、コーヒーフロートのアイスクリームをほおばりながら、コーヒーを飲んていると、ニコニコの店長が「食べていけば」って、ピザを1枚弟に出してくれる事がよくあった。

店長が下の串の坊に降りてしまってからも、串の坊の定休日前夜にバイトが入っていると、10時ちょい前に下から電話がかかってきて、「明日休みで残しておけないから、弟君と食べにおいで~」って声をかけてくれて、今にして思えば本当に贅沢に、弟とカウンターに座って、串の坊の串揚げ食べ放題だった。

 

なんで、こんな事を書いているのか???
書いてる本人も全くわからないのだが、老後、もしかしたら読み返す時のために身辺雑記を思いつくままに書いておこうと思いついた。

 

社員さん達の中に女性が2人いて、一人は割と若くて、やはりとても優しくて、私はその社員さんからサラダの作り方や、ドリンク系の作り方を習ったのだが、やはり下の串の坊に降りてしまった。
もう一人の女性の社員さんは、背が低くて、当時既に40代だったのでは?と思う独身の人で、言葉遣いが乱暴なところがちょっと苦手だったけど、あちらはとても可愛がってくださった。

社長と奥さんには私よりも1歳年上の大学生の長男と、私より3歳位下だったと思うけど高校生くらいの次男がいた。
一度だけ、長男の方はお店の手伝いに入ったことがあって、裏の母屋で夕飯を一緒に食べた時に、社長の奥さんが「歳も近いし話が合うでしょ」と言ってくれて、実際本当にそうだったので、またバイトで入ってくれ、長男!って思ったが、二度と会うことは無かった(笑)。

 

そして高台のお店は当時、広い庭があって、その庭でセントバーナードを飼っていた。
名前はゴンタ、正直、非常にゴンタは可哀想だったと思う。
誰にも相手にされる事なく、庭の大きな檻の中で飼われていて、社員さんやバイトが夕方になると、ゴンタを散歩に連れて行った。
ゴンタ手当は500円で、裏の母屋で食べる賄い食が1回200円だったので、ゴンタの散歩に行くと利益が出た(笑)。

ゴンタはヨダレが凄かったので、ゴンタの散歩用エプロンを付けて散歩に連れて行く。
大概、男性の社員さんが連れて行っていたが、東名の下をくぐるトンネルを通るのをゴンタが嫌がる、と社員さんが言っていた。

そして、そんな話を聞いてから数か月した後、そのトンネルの中のマンホールから死体が発見された。
ゴンタはトンネルに死体があるのを知っていて、通りたがらなかったんではないか、という話を社員さんから聞いて、ゾゾゾっとした。

私がモッコのアルバイトを辞めた時、まだゴンタは生きていたが、その後も時々、モッコに行くと、ある日、ゴンタの檻は片づけられていた。


それから、20年近くを経て、私の一番最初のフラットのジェミニを連れて、実家の両親や弟夫婦と一緒にモッコに食事に行った。
庭のオープンエアの席ならば、犬OKだったからだ。
私が働いていた頃とは店の雰囲気も随分と変わっていたが、店の入り口の横にハウスがおいてあり、そこにフラットのメスが繋がれていた。

ジェミニと一緒に店内からテラスへ出ようとしたら、そのフラットがガルガルと吠えかかってきて、なんとも心が暗くなった。
ゴンタの事を思い出した。
もう犬を店で飼うのは止めれば良いのに・・・と思いつつ、ジェミニと無言でその横を通りすぎた。

 

その後も交通の利便性も良く、犬OKで美味しいお食事もできるというので、色々なフラットの友達と訪れた。

当時、土曜日にモッコの近くの公園で訓練を習っていたので、訓練の後にフラッ友と待ち合わせするのも丁度良かった。

記憶にあるだけでも、ララちゃん、ジルバ君、じぇふぁんちゃん、チェリちゃん、しゃのんちゃん、ジュライ君、メイちゃん、ノアちゃん、ナイル君とか。

ただお誘いする時に「フラットが看板犬をやっているから」と紹介できなかったのは残念だった。

 

そして、かれこれ15年くらいお店には行っていない。

そうだ、千葉へ引っ越してしまったら、もう行くことは無いだろうから、その前に母を誘って行ってみよう。